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小さい頃から
絵を描くのは好きでした。
幼稚園児の時には
雪をサーモンピンク色で描いて
先生から「感性の変わったお子さんですね」
と言われました。

思えばその頃から
「描く対象の本来の色」より
それに対する
「自分の思い入れを色で表す」のが
重要だったのかもしれません。

それから、年下のいとこに
塗り絵用のイラストを描いたり
手作りの着せ替え人形を作ったり。
彼女たちには、それらの作品が
とても評判が良く
思い出して話してくれるのは
嬉しいものです。

高校生では体育祭の大型パネルや
文化祭のポスター、
ブラスバンド部の公演のポスターなど
引き受けて描いていました。
(でも美術部ではなく、写真部と
ラグビー部に所属していました。)

私が絵を仕事にするのには
家族の反対があり
やりたければ
自分で稼いだお金でするように言われました。

そこで家族の勧める高校や
大学へ行きましたが
最後に、「公務員になりなさい」
と言われたことには猛烈に反発したんです。

そこで、民間企業で働きながら
お金を貯めて
イタリアへ行くことにしました。
イタリアのフィレンツェという街です。

フィレンツェでは
「Mladen Karan (ムラーデン カラン)」
という画家に師事して
美術全般を学びました。

先生は戦地を逃れて
イタリアに来ていた人だったんです。
当初は、まだ広場の画家に混じって
観光客の肖像画(デッサン)を描いていました。
そんな彼を見て
「この人から絶対教わりたい!」と
私は毎日見学に行っていました。

やがてこの先生が
アトリエを開くこととなり
その時、ようやく生徒として
受け入れてくれたんです。

それから4年間というもの
ほぼ毎日、先生のアトリエに通いました。

通い始めた当時、私は
イタリア語は
ほとんどわからないレベルでした。

それで先生は
基本のデッサンは
自ら実演してくれました。
それを必死に見て覚えて
真似していきました。

そして外国といえば
ほめて伸ばす!
そう、先生は毎回、私をほめてくれました。

描くのも楽しい
自分がちょっとずつ進歩するのも面白い
何より、ほめられる!
いい気分でした。

そしてほめられる内容を
私は素直に信じていましたが 笑

それは思い違いであったと
わかってしまう出来事に
後々、出会うことになるのです。

そのことは
いずれブログなどで
お話させてください。

楽しく暮らしていましたが
夫が天国に行ったことをきっかけに
帰国する決心をしました。
私の夫は建築家で絵描き、先生の友人でもありました。

帰国後しばらくして
美大でもう一度
学び直そうと思い立ちます。

イタリアでは言葉の壁があり
わからなかったことが
いくつかあったんですね。

そろそろ、そういったことを
自分の中でしっかりと
解消しておきたかったんです。

その後はゆっくりと
北九州で創作活動をしながら
家族と猫と愉しく暮らしています。

これまで、京都や東京、福岡などで
公募展、グループ展に参加してきました。
また、個展も開くことができました。

これからも、折をみて
作品を発表しますので
楽しみにしていてください。

Minae Miyazaki
宮崎美苗

【略歴】
九州大学法学部卒業後、渡欧して
イタリア・フィレンツェで
「Mladen Karan (ムラーデン カラン)」氏に師事。
西洋美術全般を学ぶ。

その後、帰国して
武蔵野美術大学で油絵を学ぶ。